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日本語聖書の間違い翻訳箇所

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1、ヨハネ9:3

イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです

この文章は、神のわざが現れるために、この盲人は生まれつき目が見えなかったのだ。と受け取ってしまいます。もっと言うと、神の計画はこの盲人がこの時のために目が見えず、イエスが奇跡をみんなに見せるために盲人のままで生まれさせた。と読めてします。

しかし変です。神は人を愛していると、なんども聖書の各所で言われています。愛しているが故に愛する御子までも地上に差し向けます。そんな神が、わざわざ神の技をみんなに見せるために盲目にするでしょうか? 自分の父が子供に、大人になるまであなたはめくらでいなさい。と言うでしょうか?

英語では以下の通りです。

John 9:3  Jesus answered, Neither hath this man sinned, nor his parents: but that the works of God should be made manifest in him.  

だから翻訳は、神のわざがこの人の上に現れないといけない。と言われたのです。

2、エペソ1:23

ですから教会は、キリストの体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリストの霊が満ちあふれるところです。 (リビングバイブル)

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 (新改訳聖書)

教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられるです。  (新共同訳聖書)

まず、大きな間違いは、教会 という言葉です。この漢字は中国から来ました。教えの会、教えの場というイメージです。しかし聖書でいうのはエクレシアです。エクレシアは、イエスキリストを信じた人たちの集まりです。だから道端でも公園でもある人の家の中でも、そこで集まりキリストの話をするとき、そこが教会となります。その様に考えて上記の文章を読むとまちがではありません。

しかし多くの認識では、教会というが、教会というが、教会という建物が、牧師がいる教会が、教会だと思う人が多いのです。

教会はキリストを心から信じるあなた自身なのです。

別の聖書を見てみましょう。

この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。 (口語訳聖書)

この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。 (JA1955年聖書)

アーメンです。

マタイ18:18-20「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

3、レビ記21:1-4

主はモーセに言われた。アロンの子である祭司たちに告げてこう言いなさい。親族の遺体に触れて身を汚してはならない。 21:02ただし、近親、すなわち、父母、息子、娘、兄弟、 21:03および同居している未婚の姉妹の場合は許される。 21:04 間違っても、親族の遺体に触れて、身を汚すことがあってはならない。(新共同訳)

これは新共同訳の誤訳です。この意味は、まちがっても俗的な人々のように振舞って自分を汚してはならない。と言っているのです。(among his peole 自分の民の死人のように)だから親族に触れることを、まるで汚いことのように書いてあるのは誤訳です。

ついで主はモーセに仰せられた。「アロンの子である祭司たちに言え。彼らに言え。縁者のうちで死んだ者のために、自分の身を汚してはならない。2 ただし、近親の者、母や父、息子や娘、また兄弟の場合は例外である。3 近親の、結婚したことのない処女の姉妹の場合は、身を汚してもよい。4 姻戚の縁者として身を汚し、自分を冒涜することになってはならない。 (新改訳聖書)

この部分は新改訳聖書の訳の方がよいですね。だからと言って新共同訳聖書の全体が悪いと思ってはなりません。共同訳の方が的確に訳している部分も多々あります。どちらも間違っている部分もあります。本当は原典をたどるのが一番よいのですが残念ながら難解です。

ロマ3:22

それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。 口語訳

イエス・キリストを信ずるに由りて凡て信ずる者に與へたまふ神の義なり。之には何等の差別あるなし。 文語訳

すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。 新改訳2017

神の義は、イエス・キリストの真実を通して、信じる者すべてに現されたのです。そこに差別はありません。 聖書協会共同訳

Romans 3:22  Even the righteousness of God which is by faith of Jesus Christ unto all and upon all them that believe: for there is no difference:   (KJV) イエス・キリストの信仰による神の義でさえ、信じるすべての人とすべての人に。違いはないからです。

すなわち神の義は、イエスキリストの信仰を通して、信じるすべての人たちにもたらされました。そこには何の区別もありません。(回復訳聖書)

さて、みなさまはどの翻訳がしっくりきましたでしょうか? 聖霊様にお聴きください。

人の子として来られたイエスは十字架で死ぬまでは、文字のとおり”人の子”だったのです。血の通う肉を持った人間だったのです。その彼が神だけを見ていました。だから苦渋の十字架さえも乗り越えたのです。そして復活され神の子となられました。ヘブル語のバブ(6)からザイン(7)になられました。それは人から神になられたと言うことです。

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